南イタリアの旅b
2019,9,21〜9,26   68歳の時

 初めてのイタリア

ミラノやベネティアなど行きたい都市は数多あったのだが日程の関係でこのコースになった。
とはいうものの、アマルフィーに対するあこがれは10年前病気したときから。暗いベッドの上で
BS放送で見た陽光眩しいアマルフィーの映像は生気と優しさにあふれていた。

当時アマルフィーを舞台にした邦画がブームで、その時もし回復するなら是非行きたいと思っていた。

それから幾度か海外旅行をしたが何故かイタリアには縁がなく、今回やっとあこがれのアマルフィーに行くことが出来た。

 幼馴染みの同級生と二人で参加した今回のツアーは連休を挟んでの日程で比較的若い人たちが多くて、活気ある楽しい旅になった。

 
 
ローマの空港に着いたのは夕方暗くなってから。
その時もう雨が降り出していて、一晩中雷鳴がとどろいていた。

翌朝も雨。ローマの観光はずっと雨にたたられた。
観光スポットには傘やレインコート売りの明らかに難民だろうと思われる人たちが溢れている。
古代からの都に集まる人種の事情は複雑で重い。
3ユーロでペラペラのレインコートを買う。

傘をさしてコロッセオへ
早朝にもかかわらず大勢の観光客と思っていたら丁度マラソン大会が開催されていた。

長い歴史のあるローマは掘り返せば遺跡が出没して地下駐車場が造れないし、地下鉄の完成もいつのことやら。インフラ整備は永遠に不可能だろうとのこと。

 
総勢33名のツアー仲間と

 
トレビの泉で教えてもらった通りコイン投げをしてみる。この歳で恋の願いもへったくれもないのだが…


 
スペイン広場。小雨でもやはり人気のスポット。今では座ることが禁止されている。ヘップバーンをまねてアイスを舐めたいのだが。


スペイン広場前の通り。昼近くなると観光客が湧いたように増えてあふれんばかり。 



ローマを出て3時間15分、ナポリに到着。あいにくの曇り空でサンタルチアのムードからほど遠い
メルジェリーナ港からのナポリ湾の眺め。

ナポリのピザ。言っちゃ悪いがドミノピザの方が私の口には美味しく感じる。

朝ナポリのホテルを小型バスでソレント半島へ出発。
渋滞をやっと抜けてポンペイ遺跡の横を通る。ソレント半島に入るとまた渋滞。小型バスに乗り換えの理由が解った。道が狭い上、路駐がひどい。

あこがれのアマルフィー。海岸線が変化に富み素晴らしい美しさを見せる。ブドウやレモンの段々畑、果樹園、放牧地など険しい岸壁を利用してドラマチックな自然景観をつくっている。


アマルフィー名産レモンのジュース売り。
「美味しい?」  
 何も言わずにこの表情 。確かに.めっちゃうまかったでー


街の中心にあるサンタンドレア大聖堂。中心になる様式は、アラブ・ノルマン様式でイスラム色が強い。

映画のワンシーンのような風景。欧米人は日焼けしないのか?だとしたらうらやましい限り。


多くの観光客はその美しい街並みと海水浴を楽しむために訪れて長い休暇を楽しむ。


中世の海洋共和国として栄えた。その頃に崖を利用して建てられた邸宅が現在ホテルとして生まれ変わって世界中のセレブ達を楽しませている。
せっかくのアマルフィー、40歳若返ってお金をたくさん持ってきたかったなあl。


 
アマルフィーから5時間半、アルベロベッロに到着したのは夜になっていた。
ライトアップされたトゥルッリの林立する静かな町はおとぎの世界そのもの。
 

15世紀頃のこと、この地を収めていた貴族がナポリ王国に収める住民税を免れようと、査察使が来た際にすぐ家を取り壊せるよう、トゥルッリ以外の家を建てることを禁止してしまった。



当時は屋根の数によって税金が決められていたため石を重ねただけの屋根を崩してしまえば税金がかからないという。査察の度に家を壊された農民の気持ちはいかばかりだったのか。
その暴政によってできたトゥルッリは過酷な歴史の産物ではあるがそのおかげで世界的にも珍しいメルヘンチックな景観を見ることが出来る。
 


 
 夜遅くやっとありついたディナー。空腹でもあったが、赤ワインがとても美味しくて感激!

 
 
ホテルにもどる途中流暢な日本語で話しかけられ閉店間際の陽子さんのお店に入った。
家族経営の商魂たくましい彼女に感激する。

 
 
翌朝、陽子さんのお店の屋上の景色

 
 
 

アルベロベッロからバスで1時間半ほどバジリカータ州にある街「マテーラ」には、世界遺産にも登録された異様な住居群がある。

初めてその全貌を目の当たりにしてその独特で怪異ともとれる景観に言葉を失ってしまった。

マテーラは北部をサッソ・ヴァリザーノ、南部をサッソ・カヴェオーソと呼び、二つ合わせてサッシと呼ばれる。

サッシとは岩という意味であり、この街がまるごと岩で出来ていることを表している。

 

先史時代から、この地域には天然の洞窟に人が住み着いていたと云われていたのだが、街として人工の洞窟を掘り、人々が暮らし始めたのは8世紀のこと。住み着いた人々は、ギリシャ正教の隠修士だった。

 

 当時、イスラムの侵入やギリシャ正教内の内紛により、居場所を失くした彼らはこの地へ逃れてきた。

この地域を構成する凝灰岩は、柔らかく掘りやすいけれど崩壊しにくいという性質を持っていて、また、余分な水分を吸収してくれるため、住居を作るのに非常に適していた。

 
 

11世紀になると次第に隠修士たちの数も減り、修道院や住居も無人になっていき、その後に住み着いたのが一般の農民たち。

前面に切石を積んで建て増しをしてはいるものの、本体は全て洞窟であり、街の景観はそのまま維持されている。

 
 

しかし19世紀、近代化の波の中で豊かな者は普通の家屋に移住することを選び、その結果洞窟住居に残ったのは貧しい農民だけとなり段々荒れていく。

スラム化した街の衛生状態や治安の悪化を懸念した政府は、残りの住民を強制的に移住させたのでマテーラは一時不気味なゴーストタウンと化した。

ところが1993年、これら洞窟住居群は人々の生活文化が作り上げてきた貴重な遺産だとして、ユネスコ世界遺産への登録が決定し、マテーラの街は息を吹き返すこととなった。めでたしめでたし。


 
 

チヴィタ・ディ・バーニョレージョ 

2500年以上前につくられた都市であるが、台地辺縁部の崩落によってその上の建物が崩れる危機に常にさらされており、「死にゆく町」)とも言われる。


初めてこの景観を眼にしたとき唖然として言葉を失った。
「天空の都市ラピュタだ…。」

ペルーのマチュピチュを見た時の感激がよみがえる。

 

  チヴィタへと続く1本の長い橋。この橋がチヴィタに行く全て。

歴史は今から2500年前とも3000年前とも言われ、ローマ帝国よりも古い歴史があり、その長い歴史の中で幾度となく地震で唯一の橋も寸断されてしまい、現在チヴィタ内に住んでる住人はほんの数名
また、雨風の浸食により風化が激しく、近い将来自然消滅するのではと言われ、自らを「死にゆく街」と称している

 

チヴィタをつなぐ長い橋の急勾配の坂を登ると、入口であるサンタ・マリア門に到着。
この門が現在チヴィタに入る唯一の入口で、門をくぐるとまるでタイムトンネルかのように、現代とは思えない中世の街並みが広がる。

 
 
この橋を渡れない人がツアーの中に二人いた。一人はおしゃべりな男性、そしてもう一人は私の合い方。
「無理、絶対無理。」
「ここまで来て行かないなんてバッカじゃないの?!」
こわばった表情で引き返そうとする彼女を強引に引きずるようにして渡らせた。

 今回の旅では南イタリアの景観もさることながら、各地方の持つ独特の歴史や文化に心を奪われた。
広い平地には家が一軒も見られなくて山や丘の上に村や町がある。
それぞれ長い歴史の中、栄枯盛衰の果てにできた小国の名残なのだ。

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